野村克也さん(元プロ野球選手・監督。野球解説者・評論家)インタビュー

「最後は正しい努力をしたヤツが出てくる」

解説

野球解説者で元プロ野球監督の野村克也さんは、小学4年生の時に終戦を迎えた。当時の子どもたちの夢は陸軍か海軍に入ること。陸軍に所属していた父を亡くした(実際は別の理由)野村少年も「親の敵を討ちたい」と、陸軍を志願していた。そういう時代に生まれた。全体が貧しい時代だった。食糧難で、生きるために畑で食物を失敬したこともあったという。そうした経験を持っていたので、「貧乏はイヤだ、金持ちになりたい」という気持ちが人一倍強かった。

「母を楽にさせたい」と、どうすれば金持ちになれるか考えた結果、浮かんだ最初の職業は「歌手」。美空ひばりのスターダムに上がっていく姿に、「自分も」と、中学校では音楽部に入部。映画俳優にも憧れたが、映画を見たあとで自宅の鏡の前で俳優の真似をしてみたが、二枚目とはほど遠い姿にみずから「これは駄目だ」と諦めた。「(演技派で三枚目の)渥美清さんや藤山寛美さんなどが同年代だったら」と振り返って笑う。

中学三年の頃、母に「お前は成績も悪いから、卒業したら働きに出てくれ」と言われ、ショックを受ける。自分とは正反対の成績優秀な兄が大学受験を断念して、高校への進学を後押ししてくれた。生まれ育った網野町(現在の京丹後市)は丹後縮緬の産地だった。兄の勧めで、地元の高校の工業科の中から、カネボウの社会人野球でつながりの深い化学コースに進学し、野球部に入った。

家にテレビもなかった野村さんが、はじめてプロを見たのは高校の修学旅行。東京の後楽園でおこなわれた西鉄と阪急の試合。迫力に押され、このときは「まさか自分がプロになるとは思わなかった」という。高校時代の野球成績も芳しくなく、唯一誇れた「西京極球場でホームランを打った」では、スカウトも来なかった。

ある日、新聞の片隅に載っていた『南海ホークスの新人募集』が目に止まり、大阪球場へプロテストを受けに行った。周りは名門校の出身者ばかりで「これは受からねぇなぁ」と。ふたを開けてみれば、300人以上受けて残った7人に入っていた。うち4人がキャッチャーだった。

受かった4人の出身を聞くと、皆聞いたこともない田舎ばかり。そういえば鶴岡監督の姿もなかった。そのときこれはプロテストではなく、ブルペンキャッチャーの募集だったのだと気づいた。「スレた都会の子よりコツコツと真面目にやる田舎の子の方がいいというのが、選ばれた理由」だそうだ。入団して「みんな3年でクビだ。でもこれも会社の恩情。長くひっぱると再就職に中途半端な年齢になるから、大学に行った連中より1年早く辞めさせてやる」と言われた。

野村さんは、1年後の契約更新時に球団課長から「お前は素質がない。プロの目で分かる。やり直しは早い方がいい」とクビ宣告を受けた。母親の反対を押し切ってのプロへの挑戦だったこともあり、母に迷惑をかけまいと必死に直談判をした。

「もう就職もないでしょうし、帰り南海電車に飛び込んで死にます。私から野球をとったら何もありません。もう1年間だけ面倒を見てください。試合に使ってもらって、おっしゃる通り素質がないと感じたら、辞めて帰ります。給料もいりません」

……なんとか、首の皮がつながった。

その頃には、プロで3年間野球を勉強してその経験と知識を田舎へ持って帰って、母校の監督をやって後輩を甲子園に導くことが夢になっていた。ところが、3年目に一軍入り、4年目にホームラン王になり状況は変わった。クビ宣告をした課長は、野村選手を見て「分からんもんやなあ。ようお前も頑張ったろうけど、お前にはいい勉強させてもらった」と笑った。

5、6年目は打率は下がりホームランも減った。その時に、『バッティングの科学』(テッド・ウィリアムズ著)を読んで、投手のクセを研究するようになった。これが野村ID野球の基礎となった。そうした努力の積み重ねで、王や長嶋のようなひまわりのような選手が活躍する中で、“月見草”として26年務めあげた。選手引退後の身の振り方も、考えていた。12球団の監督は、皆、大学出ているからと、野球解説者を目指した。

素質だけに任せると一流にはなれない。そして、それはいくら才能があっても努力しなければならないことを教えてくれる。その努力の効果も、すぐに表れるものではない。継続は力なり。監督になってからも、「努力に即効性はない」と選手たちに伝えてきた。そして、正しい努力をせよ、と。

正しい努力――周囲と自分を冷静に分析し、その差分を研究し埋めていく。野村さんは自分の夢のために、気づいたことをメモするノートとペンは常に持ち歩き、一流を知るために自費でメジャーデビューの勉強、教育リーグ、ワールドシリーズにも足を運んだ。

「最後には、正しい努力をしたヤツが出てくる。」それは野村克也という人間の歩みと努力を表す言葉だった。

プロフィール

1935年生まれ、京都府出身。京都府立峰山高校卒業後、野球選手として1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレー。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、社会人野球のシダックス、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。 著書に、『野球のコツ』(竹書房新書)、『野生の教育論―闘争心と教養をどう磨くか』(ダイヤモンド社)、『私の教え子ベストナイン』(光文社新書)、『野村克也の「菜根譚」』(宝島社)など、多数。

インタビュー

スポーツマンの弟をアシスタントに臨んだ、野村克也さんへのインタビュー記事は、こちら。(外部掲載先にリンクします。)